プロフィール

ヘルスライフコーチ 片岡徹也  プロフィール

1981年生まれ、岡山県倉敷市出身。ヘルスコーチングを提供してます。

医療現場の経験、食事と運動の知識、人の習慣を決めている潜在意識の活用法を活かしながら行うコーチングは、継続した行動、習慣にまで落としこめるとご好評いただいています。

 

食事制限が苦手、運動しても痩せなかったクライアントも、3ヵ月で15kg減(13%の減量)を達成。

体重や体型の変化にとどまらず、活力が湧き若返る感覚を実感され喜ばれている。

 

ミッション

Wonder health for ALL(感動する健康を全ての人へ)

すべての人が健康で自分のやりたいことをやり、望む生活に向けて思いっきり取り組める社会。

ワクワクしながら仕事に行って、家に帰るのも待ち遠しい。

休日は友人や家族と笑顔で過ごし、やりたいことにチャレンジし、自分の理想の生活、ゴールに向けて進んでいく。

そんな社会の実現を目指して、仕事に取り組んでいます。

自己紹介動画 ヘルスライフコーチ

人生の転機ってありますよね?

私の場合は、

  • 高校時代にマイルドな不良に眼をつけられ、学校に行くのが辛くなったこと。
  • 青年海外協力隊で行った発展途上国で電気やガス、水道のない中での保健活動。
  • 帰国後、寝たきりのお年寄りに栄養剤や薬を注入する看護の仕事

などの体験です。

コーチングとの出会い

2011年に、ある出来事(詳しくは下記のプロフィール詳細から)から挫折し目標を失う。

その影響から、呼吸するたびに激しく背中が痛み、ずっと同じ悩みが頭の中をグルグル。

自分の存在価値も見いだせず、意欲ゼロの生ける屍、ほぼほぼ廃人状態に

そのときにコーチング、食事と運動を少し変える健康法に出会い、わらをもすがる思いで実践して復活。

廃人状態からすぐに、「練習無し」で「まったく苦しくなく」いきなり10km走れるようになり、人体の可能性について目覚める。

生来、運動が苦手で、小学校のときは懸垂が一度もできずに級外、マラソン大会も嫌で嫌でしょうがなかった。

風邪をひいて休むために、前日風呂上りにパンツ一枚で寝る作戦を実行するも、翌日は平熱で問題なし。

泣く泣く参加した経験もあったほどなので、その感動は大きかった。

その後、著者のセミナーや合宿に参加、120万円を超える自己投資をしてコーチング、人本来の健康を取り戻す食事や運動について学ぶ。

看護師時代には、高度専門医療の小児科から、国際保健活動で発展途上国での栄養改善プロジェクトにも参加。

海外で生活し日本を客観的に見たことで健康観が大きく変化し医療の限界も痛感する。

帰国後、健康を追求する中で、人の行動や習慣を変えることにフォーカス。

コーチングを学ぶにつれ、潜在意識についての造形を深め、行動変容をサポートするため事業を立ち上げる。

その後、残念な食の現状を知り、「食品添加物の神様」に師事して、加工食品診断士を取得。

自分自身と家族の健康を守るための、食材や調味料選びの指導や講座も行なっている。

You are what you eat (あなたはあなたが食べたものからできている)も好きな言葉の1つ。

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保有資格

看護師、保健師、保健学修士、国際保健活動に2年間従事、加工食品診断士

活動実績

  • 青年海外協力隊出前講座
  • 倉敷倫理法人会 講師
  • 玉野総合医療専門学校 保健看護学科 小児看護学臨時講師
  • 新見公立大学 新・健康科学部 看護学科 国際看護 特別講義講師
  • NPO法人 備前プレーパークにて定期的に自然療法講座の開催
  • H30年 岡山大学病院に子どもの絵本寄贈プロジェクトにて山陽新聞に掲載
  • R元年6月 倉敷市商工課主催 KVOミニ起業塾 講師
  • R元年9月 岡山リビング新聞社カルチャースクールにて食品添加物講座 講師
  • R元年10月  福山リビング新聞社カルチャースクールにて食品添加物講座 講師

以下、プロフィール詳細です。

長いので時間と興味のある方だけどうぞ。

片岡徹也の自分史

共働きの両親、お祖母ちゃんっ子だった幼少期

共働きの両親、祖母と大叔母、姉の6人家族で育つ。

両親が共働きだったことで、祖母に面倒を見てもらって育ったお婆ちゃんっ子。

未熟児で生まれたため、祖母が心配して、世話をよく焼いてくれていた。

4歳~5歳のころに小児ぜんそくが出る。

子どもの頃は、ゲゲゲの鬼太郎にはまり、水木しげるの妖怪の本が愛読書だった。

ゲームにハマった小学生時代

ファミコンが発売され、父親に買ってもらったのをきっかけにゲームにのめり込む。

家に友達が来ては、ゲームをして、時間が来れば外に遊びに行く日々。

夏は田んぼや川で虫や魚をとって遊んでいた。

小学校6年のときのクラブ活動で、ワールドクラブという異文化交流のクラブができて、面白そうなので入ってみる。

マレーシアの小学生と文通をしたり、国際協力ボランティアの番組を見て、海外の文化や生活に興味を持つ。

単純な中学生、目標ができた中学時代

国際協力を目指したきっかけは、中学生の頃にカンボジアへのボランティアの TV を見たこと。

単純になんにも考えず、『国際協力ってかっこイイッ!』って思っちゃったんです。ほんとに単純な中学生でした。

悩みが多かった高校時代

そういうわけで、国際的な仕事をしようという目標を持って進路を決めるために高校に入学。

しかし、高校に入ってからというのも授業はでるだけ、宿題は人のものを写して提出。

授業中は調子が悪いといっては、保健室行って寝たり、早引きしたり。

生徒手帳に親の名前を使って、遅刻理由を適当に書いて、印鑑押して持って行って、朝ダラダラ登校してたこともしばしば。

花の高校生活を無為に過ごしてしまいました。今考え直すとホントにもったいない。

そんなことしてたら、成績もズルズルと落ち込んでいきました。

高校時代の最初はゲーセン通い引きこもり予備軍

1年生の3学期は350人の学校で、後ろから数えて30番ぐらい。かなりのショックを受けました。

中学の時に仲良かった友人たちと進学で離れ、馴染みの友人がいない高校に。

他の中学から来ていたヤンキーと馴染めず、目をつけられたことで、学校に行くのも嫌に。

友達と遊びに行くこともなくなり、ゲームセンターに通って、50円を入れる。

モニターに向かってレバーをガチャガチャ、ボタンを叩いて時間をつぶす毎日。

学校も面白くないし、どうして生きてるんだろうとかも考えたり。

唯一の楽しみが毎週月曜日に出る「少年ジャンプ」だったりして。

マンガの作品から受けた影響も大きいので、良いところもありました。

が、その当時のことを考えると、引きこもり予備軍だったような気がします。

家に帰って自分の部屋にこもり、ベッドの上で考えてました。

なんで高校なんか行ってるんだろう?

これから先どうなるんだろう?

自分が本当にしたいことは何なんだろう?

自分が何をやりたいのかを、一から考え直した時にあったのは、中学生の時の目標でした。

中学生の頃に持ってた「国際協力をしたい」「現地の人と協力して何かしてみたい」 という目標。

その時 TV で見たカンボジアという異国の地で現地の人々と協力して目標を達成しようという姿。

国際協力に従事する人の背中。

それがふと頭の中をよぎりました。

そうだ、自分にはやりたいことがあったんだ。

ようやく前向きな考えが浮かんできました。

そこでようやく、高校の授業を聞き、少しずつまともな高校生活に。

遅刻、早退せずに通学するようになりました。

父親を尊敬した高校時代のバイク事故

高校の頃の一番の思い出は高校 3 年の夏にバイクで車と事故を起したことです。

交差点で右から来る車と接触し、思いっきり跳ね飛ばされました。

バイクもかなり吹っ飛んでヘルメットも転がりました。

車とぶつかった瞬間はよく言われるように時間がとてもゆっくりに。

自分の体が左にふっとんでいくのが良く分かりました。

倒れてからゆっくり起き上がろうとすると、なんとか起き上がることができます。

足がゆっくりとしか動きませんが何とかたてました。

どこが痛むのか確認するため少し体を揺らしてみると右ひざが強く痛みます。

車を運転していた相手がやってきて、安全な場所まで連れて行ってもらいました。

そうこうしている内に誰かが呼んでくれた救急車が到着し病院まで運んでもらいました。

病院のレントゲンでは骨に異常はないものの靭帯を痛めているので全治 4 週間、取り外し式ですがギブスを装着することに。

バイクも任意保険に入っていなかったため相手の車の修理代を こちらが持つことになりました。

高校生に出せる金額でもなく、足にギブスもしているので家に帰って親にも正直に話しました。

事故をした相手から電話がかかってきて、親と話したいというので父親と代わりました。

どんな内容なのか気になっていた私は、父親と相手が話をするのを壁越しに聞いていました。

どんな話をするんだろう、車の修理代はいくらになるのだろう。

私は気が気でなかったのですが、相手の話が始まるか始まらないかという間に驚くことが起こりました。

父がいきなりすごい剣幕で怒って、電話を切ったのです。

私には意味がわかりませんでした、なんでいきなり電話を切るのか。

普段温厚な父がどうして怒りだしたのか。

その時父が怒った理由というのは、事故の相手がいきなり修理中に借りるレンタカーの代金の話を始めたということでした。

父は電話を切るときにこう言っていました。

「お宅のところもお子さんがいらっしゃるんでしょう」

「うちの子どもが事故を起したのはのうちの子の責任でしょう。本人も認めています。

だけど、うちの子は救急車に乗ってギブスをつけて帰ってきています」

「どうして、あなたはそれに対して何も言葉がないんですか」

「そういう人とはもう話したくない、あとは保険屋に言ってくれ」

相手も休日前で家族と旅行に行く予定があるとのことでした。

私は父に激しく怒られた相手の方が逆にかわいそうに思えてきました。

その時一緒に居た姉が一言、「お父さんかっこええなぁ」。

私は強く頷きました。

その後は、相手の方からお父さんに謝らせてくれと電話がかかってきて、なんとか話も終わりました。

もちろん先方の車の修理代はこちらが出すことになったわけで。

家計に迷惑をかけたと思った私はなんとか大学は国立に入らなければと、ギブスをしていたのもあって夏休みは勉強に打ち込みました。

その時の勉強の甲斐あってかなんとか志望していた大学に入ることができました。

女の園でとまどう看護科、大学時代

看護科での大学生活は異色の経験かもしれません。なんといっても看護科は女の園。

80 人のクラスの内、74 人が女性。男子はわずか 6 人でした。

なんじゃそりゃ、うらやましいという声が聞こえてきそうです。

確かに最初は楽しかったのですが、やはり女の子とばかりいては自分をさらけ出す場がありません。

女の人といる時間が長いからか男の友達と話すのをどういう話題をしていたかな、と考え込むこともありました。

大学 3 年のころに看護科だけでなく、放射線科や検査技術の学生とも授業がよく一緒になり、ようやく大学時代の男友達とよく遊ぶようになりました。

その頃私とよく遊んでいた友人がハマっていたのがインテリアです。

デザイナーズアイテム、インテリアにハマる

岡山市内のオシャレなカフェで発見した柳宗理のバタフライスツール。

それを発見した瞬間がが、私たちがインテリア熱に侵された瞬間でした。

なんだこの形は、この曲線って有り得ない。

柳宗理、イサム・ノグチ、チャールズ&レイ・イームズ、ヴァーナー・パントン、渡辺力。

ミッドセンチュリーモダンにはまり、市内のインテリアショップやデザイナーズアイテムを置いている店をめぐりました。

それだけでは飽き足らず、岡山から夜行バスで東京に色々なショップを訪ねて行ったこともいい思い出です。

大学 3 年の冬に歳末バーゲンから初売りまでの年末年始を大手スーパーでアルバイトをして、念願のイームズのアームシェルを購入。

学生にとってはかなり思い切りがいりましたが、今も気に入って使っているので本当に買ってよかったです。

肝心の看護科での授業の方は可もなく不可もなく、ただ 3 回生のときの授業は少し苦痛でした。

今までのバラエティのあった教養科目がなくなり、○○看護学ばっかり。

授業も座学ばかりで、本当に看護師が自分にできるのか不安になりました。

しかし、病院実習が始まってからは患者様と直接かかわりを持つ、看護師の仕事に強い責任感を感じました。

国家試験が見えてからは看護科の友人と勉強会を開いたり、気分転換のスポーツ大会を開いたりして、仲間全員で楽しみました。

国家試験も無事に通り、看護師、保健師免許を取得。

新卒社会人、看護、女性社会の厳しさを知る

病院の内定も決まり、面接で希望した小児科に配属。

小児科を希望したのは実習で炒った時に子どもと一緒に遊んで楽しかったことが一番の理由でした。

また子どもの成長に看護師として関わる事ができると思ったのも理由の一つです。

看護師として初めて働くことになった職場はやはり男性は私一人、今までも誰も男性の看護師は入ったことがない病棟でした。

気配り一番という看護師の業務の中で気がつかないこともあり、先輩方には丁寧に指導していただきました。

男性ということで厳しく見られたり、優しく教えてくれる先輩もいたり、職場でのジェンダーを感じました。

中には、一年間「おはようございます!」、「お疲れ様でした!」という挨拶を1年間無視され続けた先輩もいました。

今思えば、その先輩も人見知りだったり、コミュニケーションが苦手だったのだと思いますが、当時はその先輩と一緒の勤務になるのが嫌で嫌でしょうがなかったです。

夜勤で同じになる前日は、不安で仕方なく、なかなか眠れなかったです。

小児科の病棟では季節に一度子どもたちや医師、看護師で病棟のお楽しみ会を開いていました。

その時には司会をさせていただくことが多く、患者さんのお母さんから司会が上手だと褒められたことがとても嬉しかったです。

同じ病棟で 4 年間の実務経験を積んで、晴れて中学生の頃の目標だった青年海外協力隊に参加。

国際協力というステージに上がることができました。

途上国での生活、治安とインフラの大切さを実感

青年海外協力隊(国際協力ボランティア)の現場では色々と勉強させていただきました。

グアテマラという国もまだまだ発展途上で、地域間の格差がとても大きい国です。

首都には高層ビル群がならぶけど、田舎の山村には水道さえ整備されていない。

電気やガスもなくって、まきをくべて料理をしたり、夜はろうそくの明かりで過ごしたり、という生活をしている人もたくさんいます。

発展している首都は首都で、お金持ちと貧民の差があまりにも激しく、金持ちを狙った強盗などの犯罪が頻発していました。

同じ協力隊の仲間の中には、ピストルをお腹につきつけられた友人もいます。

幸いお金を取られるだけですんだのですが、治安が悪いというのが どういうことか知ることができました。

本当に無事で良かったです。

自分の活動の中でも、村人の生活の向上を目指していました。

それを継続的に行うには組織というか、市町村などの行政レベルでの支援が必要不可欠。

グアテマラの社会問題などを知った影響もあって、 社会がどのようにまわっているのか?

社会システムはどうなっているのか?

そういったことに興味が湧くようになりました。

あともう一つ、グアテマラに行って気づいた大きな点。それは日本の素晴らしさ。

私たちが当たり前に生活していることも、世界基準で当たり前になっていることはなかなかありません。

電気やガス、水道のインフラ整備はもとより、国民の教育レベルも日本はすごい。

教育レベルがスゴイというのは、トップのレベルではなくて、国民平均がすごいんです。

一番わかりやすいのは識字率、ほぼ100%。

人口が1億以上いる国で末端の教育レベルが保てるというのはすごい長所です。

例えば、アメリカでは TOP はものすごいけど、字が読めない、書けないっていう人もけっこういます。

欧米と比べてもスゴイと思えることが実はいっぱいです。

一度海外に出て、日本という国を客観的に見られたことは私の大きな財産になっています。財産といえばもう一つ。

協力隊で一緒だった女性と 2009 年に結婚。

価値観が近い人と出会って結婚できたのも協力隊に参加して良かった点ですね。

帰国した後、留学を目標にするも、、、

日本に帰ってきてから、もう一度日本を外から眺め、自分のスケールを広げるために、海外へ留学しようと考えていました。

海外で進学するとなると、不安なこともいっぱいです。

言葉が理解できるのか、自分の気持ちが伝えられるのか、大学の試験にホントに受かるのか。

向こうでの住居は、頼るあてがあるのか。

海外で暮らすには生活費もいりますし、結婚して、所帯を持ったからには、なんとかして路頭に迷わず、子供の養育費も見据えて、お金を貯蓄、資産形成していきたいと考えました。

投資や資産形成を学ぶが、、、

就職してから 2 年目の頃に FX や株で資金を運用していたことがあり、投資については少し勉強していました。

ただFX や株などの紙の資産は変動が激しいことと、市場における個人の影響力がとても弱いということで違う投資に興味を持ちました。

その時に勉強したのが不動産投資です。

マンションやアパートを購入して賃貸に出し収益を上げるという賃貸経営についての書籍を読み、 岡山で大家さんを対象に行われている勉強会にも参加し学びを深めました。

自分の勉強がてら不動産投資に関するメルマガを発行し読者数が5 千人を超えていました。

投資とお金の勉強会を開催し、月に 1 回 9 ヶ月間クラスを持っていました。

しかし、不動産を購入するとなると頭金が必要となります。

そして、留学時期が迫ってくると大きな出費が難しくなると考えて今の段階での物件購入は断念することにしました。

それに伴いメルマガも中止。

転機を迎えた2011年

2011 年は海外留学という目標を建ててそれに向かって進んでいました。

2011 年 10 月にブラジル研修留学プログラムを申込み、合格。

2012 年の 4 月に渡航予定であったのですが家族と 1 年間離れる可能性がでてきました。

2011 年に長男が生まれ、留学している間は 1 歳になる息子と離ればなれという状況になりそうでした。

私が以前から留学したいという気持ちがあることは妻には伝えていました。

妻はそれでも行って来てよい、と言ってくれたのですが、様々な障害が起こったこともあり、自分の気持ちが定まらず海外留学は中止。

その後、目標を見失い、大変な時期がありました。

が、そのときに自分の人生において、海外での経験を積むことよりももっと本質的に重要なものに出会うことができました。

それは『真の健康』との出会いでした。

真の健康との出会い

当時、私は病気だったわけではないのですが、疲れると背中がこり、ひどくなると背中の痛みに襲われていました。

右肩の下から背骨の右側が硬くなっていて、手で触ってみると少し盛り上がっているのが分かりました。

もちろん、いつも痛かったわけではないですし、耐えられないほどの痛みでもなかったのです。

ただ、一番ひどくなったときは呼吸をすると背中が痛み、息をするのが苦しいほどでした。

その時は整体に行って処置をしてもらっていました。

整体した後はよくなるのですが、数日経つとまた痛みがでてきていました。

原因もわからないし、病院に行ってレントゲンを撮ったところで骨に異常があるわけでもない。

時間が過ぎればそのうち良くなると考え放っていました。

そう思った理由には秋~冬にかけて痛くなることが多く、季節が変わりきると良くなることが多かったような気がしていたからです。

それでも、どうしてよくなるのかその理由が全く分からずにいたのです。

その時は留学を中止することにして目標が目の前からなくなったこと。

その中の人間関係でショックなこともあり、気持ちも落ち込んでいました。

休みの日はベッドで寝て過ごし、何もせずにダラダラと過ごす。

背中の痛みが気になりだすと、そればかりに集中してしまい、夜子どもが泣いて、妻が起きてあやしていても代わってあげる気力もありませんでした。

目が覚めても眠たい中で体を起こして疲れている妻に代わって子どもを抱え上げることができなかったのです。

どうしたらいいんだろう、どうして背中のコリと痛みがあるんだろう。

よくなるにはどうしたら、、、、。

今まで目標にしていたこともなくなって、何をしたらいいんだろう、、、、。

本当にこのままでは鬱が続いて、起き上がれなくなる。

本当にヤバいッ!

そう思った私は自分の本棚で眠っていたある本を取り出し、実践していなかった健康をつくる習慣をやってみることにしました。

正直わらにもすがる思いでした。

これぐらいのことでどうにかなるとは思えないけど、身体でも動かさないと、気持ちが沈んでしまう。

これぐらい落ち込んでなければあまり気にも止めず、その本に書かれていたことを実践する気持ちにはならなかったと思います。

しかし、ここで私に変化が訪れます。

実際に本に書かれていることをやってみると 1 週間もしないうちに、背中の痛みが弱くなりました。

背骨の右側にあったコリも、触ってすぐにわかるほどに小さくなっていました。

驚きました。

2日経っても、3日経っても痛みもありませんし、コリも大きくなってきません。

その上、元気もでてきて疲れにくくなりました。

疲れにくくなったのを実感したのは夜勤をしている時でした。

その当時私は 2 交代制のところで夜勤をしていたので夕方から次の日の朝まで、時には昼前まで働きます。

時間にすると 18 時間ぐらい、仮眠が 2 時間ぐらい。

業務も基本的には立って患者さんの部屋を回っていることが多いです。

そのため、夜勤の終わりごろには足の裏が痛くなり、疲れを感じていました。

しかし、生活習慣を変えてからというもの、夜勤後も足の裏が痛くないことに気づいたのです。

夜勤の後に背中が痛くなることもありませんでした。

私は感動しました。

こんなに短期間ですぐに効果があるなんて!!

カチッと、私のなかでスイッチが入りました。

その本の著者の講演会に参加し、宿泊型のセミナーに参加。

健康を作る習慣を 3 日間の実践を通じてさらに深く体験し、効果の素晴らしさを実感しました。

3か月半の練習でフルマラソン完走、その夏トライアスロンに挑戦

その流れで、フルマラソンを決意。

ジョギングを始め3ヵ月半で吉備路マラソン、フルマラソン完走。タイムは4時間57分。

その夏の初めてのトライアスロンに申込み、倉敷国際トライアスロンも3時間20分で完走。 

体力がない自分」というイメージがなくなり、人の可能性が限りないことを実感。

病院や薬での治療だけではなく、生活の中で、健康レベルをどんどん高めていけることを確信しました。

独立して起業することを決意、そして、、、

その習慣を普及することを決意して独立。

人の行動や習慣を変えるのに無意識レベル、潜在意識の変化が必要だと感じて、7泊8日の合宿や苫米地英人氏、ルー・タイス氏の教材でコーチングを学びました。

そして、潜在意識の追求から、瞑想を学び、実践。

また、300種類以上の栄養素を含み、デトックス効果も高い奇跡の植物マルンガイ、テラヘルツの浄水器ガイアの水と出会い、今までの栄養や水の常識を超えた情報を知り、違いを実感しました。

 

その頃、ある1冊の本と出会い、超常体験を2回ほど体験することに、、、

そこからスピリチュアルにハマるも、1年ほど経って、現実生活が何も変わらず、経済的にも苦しい状況が続きました。

 

目に見えない精神世界も大切だが、改めて現実的な行動が大切だと氣づき、ブログやメルマガを本格的に始め、事業が軌道に乗り始めます。

事業実績

主な事業実績
  • 月の売上げ200万円達成。
  • ブログ読者3,000人突破、メルマガ読者2,000人以上。
  • 30代サラリーマンの給与を上回る権利収入の構築。
  • 成約率25%のLP作成(ページを見た人の4人に1人からの申し込み)。
  • 160名のリストで売上190万円以上のプロモーション実績。
  • クライアントは27名のリストで23万8,400円の売上達成。
  • 2016年8月、継続して事業を伸ばしながら3週間の世界一周旅行を果たす。
  • クライアントの高額セミナー(24万8千円)の成約率を20%上昇させる。
  • 自身の才能を発見し、1年で主婦から月収60万円の事業主へ変身。

などの実績を出す。

消耗、事業の停滞。そして、、、

が、その後MLMの人間関係の中で、疲弊し消耗。

事業も伸び悩み、停滞する。

仕事に対するモチベーションも低下しましたが、ふとした時に「以前のクライアントさんからもらった感想や手紙」を読む。

すると、そこには、ありがたいことに感謝の言葉がつづられていました。

自分の活動が人の役に立ち、その人の人生をポジティブに変化できたことを思い返すことができたんです。

再度、事業を始めた原点に立ち戻り、健康や自分の身体にコンプレックスを持つ人へ、身体の可能性を引きだし健康を高めるコーチングを提供し始めました。

なぜ健康が自分のテーマだったのか

2011年、自分の転機となったセミナーは健康以外にも色々とテーマがあり、自分の人生のミッションを考える機会も設けられていました。

様々な演習を通して自分を見つめました。そのセミナーが終わり、家に帰ってリラックスした後、ふと考えていました。

どうして、中学生のころから海外に興味を持ったり、協力隊になりたいって思っていたんだろう。

その時、私の心に浮かんできた理由というのは『自尊心の欠如』だったのです。

幼少期から抱えていた低いセルフイメージ

私は子どものころから、多くの人が知らないものに興味を持ち、それを知ろうとしてきました。

趣味や好みも、多くの人が好きなものを避けて少数派のなかにいることが好きでした。

それは何故か。

それは、『自分に希少価値を見出すため』だったのです。

金やプラチナ、ダイアモンドが貴重なのはなぜでしょう。

堅いから、錆びないから、キレイだから、加工して使えるから。

どれも正解ですが、一番の理由は量が少なくて貴重だからです。

小学生のころ、私は成績が特別優秀だったわけでもありません。

運動神経もあまり良くなくて、かけっこや鬼ごっこも苦手でした。

一度鬼になると、なかなか友人を触れないと分かっていたので鬼にならないように必死で逃げていました。

頭も運動も秀でているものがなければ、どうやって自分に価値を見出すのか。

みんなが知らないことを知っている、みんなが体験していないことを体験している。

そうすれば自分にも価値が出る。

そう思っていたのだと思います。

実際に意識したことはなかったのですが、今振り返ってみれば、それが自然のように思います。

自分に価値を見出すため希少な存在になる。

これが小さな私の生存戦略だったのです。

しかし、ここで考えなければならない重要なことが一つあるのに気づきました。

どうして、そこまでして自分に価値を見出そうとするのか。

それは『自尊心の欠如』があったことに他なりません。

そのことに気づいた時に今まで思い出さなかった子どもの頃の記憶が思い出されました

私は子どもの頃、よく喘息の発作をおこしていました。

記憶があるのは4,5歳の頃からですが、毎朝、毎晩喘息の薬を飲んでいました。

子どもの頃はその薬が苦くてなかなか飲めず、お祖母ちゃんに薬を小さなおちょこですりつぶしてもらい、砂糖水で溶いてもらって、ようようと飲んでいました。

喘息の発作というのは息の通り道になる気管が狭くなる状態を起こします。

気管が狭くなると、息を吐きだしにくくなり、二酸化炭素がたまり、息苦しくなります。

息が通る道が狭くなるので、息を吐こうとすると、ヒュー、ヒューと音がします。

気管が狭くなるのを防ぐ薬を飲み、また、薬の煙を吸い込むことで気管の粘膜から薬を吸収し、気管を広げる『吸入』も毎日していました。

今の吸入器はコンパクトになっていますが、昔の吸入器は大きく、かなりの音がしていました。

だいたい同じ時間にしていたので、 吸入の時間になりその時に友達が遊びに来ていると、15分間ほどみんなと別の部屋に行きヴヴヴヴヴッという吸入器の音と一緒に過ごしていました。

楽しそうにゲームで盛り上がっている友達の輪から抜けるのが辛かったです。

喘息の発作は気圧が低くなる明け方によく起こります。

4時や5時頃に私が起きて、ヒューヒューという音をさせているのに 母が気づきます。

寝ている父を起こして、まだ日が登っていない暗い中、車で大きい病院に連れて行ってもらっていました。

その頃は意識して考えたことはなかったですが、喘息の発作がでるのに曜日は関係ありませんから平日の時もありました。

仕事もあるので父もゆっくり寝たかったときもあったでしょう。

子どもの時に友達と遊んでいて雨が少し降った時に祖母が傘を持って迎えに来てくれたこともありました。

『喘息がでたらおえん、雨に濡れたらおえんから帰ろう』

今考えると本当にありがたいことです。

ですが、友達と遊ぶ時間が何より楽しい子どもの頃はそうやって家に帰らされるのが嫌でした。

毎日薬を飲まないといけない。毎日吸入しないといけない。

寒い時は風邪をひかないように、特別に注意しないといけない。

雨に濡れないように人よりも気をつけないといけない。

どうして?

喘息があるから。

本当に父、母、祖母には心配をかけたと思います。

世話をしてくれたことに心から感謝しています。

私のことを考えて、丁寧にみてくれた家族に「ありがとう」と心から思いました。

しかし、私はこのような環境の中で『健康について人よりも劣る』という自己イメージを作り上げてしまっていたのです。

これが私の『自尊心の欠如』に繋がっていました。

そう思った時に上記に記したようなエピソードがふいに頭の中によみがえってきたのです。

これは誰かに言われたものではなく、自分の内から自然と湧いてきたものです。

有難いことに中学3年生のころから喘息の発作はほとんど出なくなりました。

病院に行くこともなくなり、高校生の頃に喘息の薬を飲むのを止めることができました。

大学で看護師の道を選んだことは子どもの頃の経験と、つながりがあると思いますが意識したことはありませんでした。

というよりも、このような思い出を大人になってはっきりと思い出したのは、その時に参加したセミナーが終わってからでした。

なぜここまで考えたのかと言うと、健康をつくる習慣をはじめて、気になっていた背中の痛みも消えジョギングをしている時に幸せを感じたからです。

『あれっ、俺、元氣じゃん』

そう思うと、自分に特別な価値を見出す必要がなくなりました。

自分はここにいる、それでいいんだ、と。

少し大げさな表現かもしれませんが、自分の存在価値を“そのまま”認めることができた気がしました。

その時の私にとって『健康』というのは『留学』をして多くの人が経験していない経験をすることよりも価値が重いものでした。

留学を取り止めにし、目標を無くしたと考えて落ち込み。

なんとか這い上がろうと行動し、本当に、たまたまだったのですが、それに代わるものを得ることができました。

今お話している「健康をつくる習慣」というのは、何も特別なことではありません。

そして、背中のコリや痛み、喘息が改善するという限定的なものでもありません。

アトピーやじんましんがよくなった人、20㎏のダイエットに成功した人、

5分も走れなかったのに南極マラソンで世界6位になった人、

28歳の頃より40歳を超えた今の方が若く見える人、もいらっしゃいます。

ここまでの効果がでるのなら、さぞ特別な方法なのだろうと思われるかもしれませんが、特別なことではありません。

『シンプルな運動と、食事を少し氣をつける』たったこれだけです。

これだけなのですが、続けるにはちょっとしたコツがあります。そして実践するには信じることが必要です。

実践することは難しいことではありません。

信じることが一番難しいのです。

なぜなら、そんなことだけで『健康』になるとはなかなか信じられないからです。

そして、『健康』について勘違いをしている人が多いからです。

『健康』な状態というのは次のようなことです。

人本来の健康状態とは?

本来の健康とは
  • 現在悩まされている症状を改善し、爽やかな日々をおくる
  • 自分のエネルギーを高め、夜中まで仕事をしても疲れない体になる
  • 免疫力を増強し、病気にならないようになる
  • リバウンドなく、自分の適正な体重、理想の体型をずっと維持する
  • 年を取らないのではないかと思われるぐらい若さを保つ、もしくは若返る
  • 何事にも挑戦する意欲が湧いてきてチャレンジせずにはいられなくなる
  • 休日や空いた時間にやりたいことにとことん打ち込める
  • 家族や友人に心からの愛情を行動で示すことができる
  • 正常な唾液の分泌を促し、虫歯を予防し口臭を完全に解消できる
  • 大切な試験や会社の重要な会議、プレゼンに最高の状態でのぞめる
  • 病院に行かなくても自分で体調を管理する行動がとれる
  • イライラ怒ることがなくなり、すべてに寛大な気持ちで対処できる
  • 人間関係にメンタルが左右されることなく、やるべきことに集中できる
  • 仕事のパフォーマンスが高まり、業績を上げ続ける

私たちはこれらのことが健康とは、なかなか信じられないものです。

なぜなら一般的に、健康=病気でない状態と考えてられているからです。

多くの人が健康についての正しい概念を持っていないからです。

健康とは病気でない状態ではありません。

健康とは無限のエネルギーであり、あなたの人生を輝かせる大切なリソース(資源)なのです。

私は大学生の時に講義の中でヘルスプロモーションという概念を習いました。

ヘルスプロモーションとは健康を推進する、健康を増進するということです。

これは「健康観の転換」でもあります。

ヘルスプロモーション(健康を推進する) とは、病気という-(マイナス)の状態から0(ゼロ)に戻すだけではありません。

-(マイナス)から     0(ゼロ)へ、次に 0(ゼロ)から 健康という+(プラス)へ。

そしてその +(プラス)をどんどん高めていく、ことなんです。

私はこの考え方にとても共感しました。

しかし、一つ気になることがありました。

風邪や下痢などの病気は手洗いやうがいをして、食べ物はきちんと保管、きちんと調理して、体と食べ物の衛星を管理すれば予防はできます。

心臓病、脳卒中、糖尿病といった生活習慣からくる病気にならないように生活する。

一般的に良いと言われている食生活や運動を意識的に行えば予防できるでしょう。

しかし、これらのことは病気にならないようにすることであって、健康を増進していくことではないように感じていました。

なぜなら健康が高まっていくことを実感したことがなかったからです。

だけれども、私は『健康を高める』ことができることを身体の芯から、そして心の底から実感しています。

ほとんどの人が健康に生まれてくるのに日々の生活を送り、年を重ねるごとに健康を損ねていくことが多いです。

生活の中でほんの少し気を使うことで、失った健康を取り戻し、さらに高めていくことができます。

私は、健康は病気ではない状態ではなく、望む生活をおくるための資源だと考えています。

「なるもの」ではなく「デザインするもの」

一人一人個性があるので、望んでいる生活も違います。

「健康」が資源であれば、一人一人目指すべき健康も異なります。

登山家には登山家の健康があり、料理人には料理人の、あなたには「あなたが理想とする生活」を実現するための健康があるはずです。

つまり、健康は自分の理想の生活を元に創り上げるモノなんですね。

健康になるのではなく、健康をデザインしていく。

それを通じて、僕が目指しているのは、このビジョンです。

すべての人が健康で自分のやりたいことをやり、望む生活に向けて思いっきり取り組める社会。

ワクワクしながら仕事に行って、家に帰るのも待ち遠しい。

休日は友人や家族と笑顔で過ごし、やりたいことにチャレンジし、自分の理想の生活、ゴールに向けて進んでいく。

そんな日本社会の実現を目指しています。

貴重なお時間を使い長文をお読みいただきどうもありがとうございました。

 

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